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2015年は「かぜあつめ」が一度なくなってしまい、そして復活しました。かぜあつめ復活おめでとう!大したことはできませんが、日常を振り返る「空白」の時間を重ねて、風を絶やさぬように続けていければと思います。

 

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帰省ラッシュの東京駅を駆け抜けて新幹線に飛び乗り帰省。近江八幡駅に降りると冷たい空気が肌にあたり鼻から肺まで一気に入ってきた。バスのロータリーの時計台には地味だけど温かみのある電飾で「お か え り」という文字が型取られている。いつものように駅まで迎えに来てくれた父親と車内で小さな口論をした。仕事はどうや、うーんまあまあ、給料いいんか、いや住宅手当もないし本社の方が給料は高い、じゃあ本社いけばいいんちゃうんか、えー興味ないもん、今の仕事はどうなんや、恵まれてる環境やと思う、じゃあいいやんけ、いやでももう飽きた、まだ見習いのくせになにが飽きたじゃ、もう3年やで?、まだ3年や、…勇気がなくてなにも言い出せないわたしは、父親とちゃんと話そうとするといつも堂々巡りになる。毎回代わり映えしない会話の中で、会社の方針にああだこうだ文句を言えるくらい(実は)余裕があるということにはっと気づいたところで家に到着した。

 

車を降りて夜空を見上げると文字通り宝石のように輝くオリオン座が目に入る。「カルボナーラ鍋」というよくわからない夕飯が思いのほか美味しくて満足、神棚から下げてきたとらやの羊羹を食べて珈琲を飲み、「献血はいいで~」となぜか楽しそうな母の誘いを丁寧に断って、少女時代の記憶が地層みたいに重なっている部屋でぐっすり眠った。

 

一夜明け、今日は餅つきである。すきま風入り放題の日本家屋で冷えないように靴下を2重にして履き、祖母が用意してくれた新の長袖エプロンをかぶり、万全の準備をして「撮影」する。数年前から私の担当はつきたての餅を丸める係と撮影係で、いつもiPhoneを片栗粉まみれにして記録をしている。丸める方で得意とするのは鏡餅の形づくりで、これだけはとても綺麗に仕上げられる。適当な大きさにちぎった餅を両手ですくい上げるようにして回し、形を作っていく。餅は冷めると急速に固まるため形づくりは時間との勝負で、作業中は必死だから実感がないのだけど、餅を手で包み込んだ時に伝わる温かみと弾力がなんだか人を安心させるんだなあと気づいた。

 

来られなかった弟に頼まれた「バター餅」はバターの賞味期限が切れていたので断念、今年のメインは小ぶりのあまおうと白あんで作る苺大福だった。蒸し上がった餅米を石臼に入れて「小突き」、ふりかぶって木の杵(重い)をおろし、餅をつく。担当は父とおじさん、返し手は祖母。私も好奇心で毎回つこうとするのだが、顔を真っ赤にしてもばちーんといういい音が出ないので大体諦める。つき上がった餅は、最近導入した「おもちカッター」という手動の機械で均等な大きさに切り、片栗粉を引いた板の上で丸めて出来上がり。薄く広げてその上に白あんをのせ、苺を逆さまに包んで苺大福。中の苺が透け、てっぺんが薄く赤に色づいている苺大福は、雪のような片栗粉を纏ってとても愛らしかった。これがまた驚くべき美味しさで一度に3つは食べた。はあああ、年末だなあと思う。しあわせの味ってこれだなあ…とあまりにも平凡な結論。東京土産を苺大福にしなくてほんとによかった。